自身とふるさとの今 岡道一平(3/11 キッズ フォト ジャーナルOB)

 中学3年から高校3年まで3/11 Kids Photo Journal(以下KPJ)で活動した釜石支局の岡道一平君(23)は今夏、防災技術の開発に携わる企業のインターンを兵庫県尼崎市で受けました。2013年にKPJが発行した写真新聞を印刷した京都も訪れ、事務局スタッフに近況を報告してくれました。

 中学3年で東日本大震災を経験し、KPJの活動で自身のふるさとでもある被災地を全国や世界に発信した岡道君は現在、工学部の大学院1年生です。震災を含むさまざまな経験を基に、就職活動でこれから歩む人生について考える年齢になりました。震災から8年がたちました。釜石はラグビーワールドカップの会場の一つに選ばれました。フィジーとウルグアイが熱戦を繰り広げた「釜石鵜住居復興スタジアム」は、岡道君の通っていた小中学校の跡地に建ちました。

 自身とふるさとの今をOBとしてジャーナルにつづってくれました。岡道君が当時撮った写真とともにお届けします。

 

3/11 キッズ フォト ジャーナル事務局

 

 

photo by ©Masaru Goto/311 Kids' Photo Journal
photo by ©Masaru Goto/311 Kids' Photo Journal

KPJの活動を始めた頃の岡道君

 

 

 お久しぶりです。KPJで活動していた、岡道一平です。僕が活動を始めたのは2011年春からで、震災からしばらくたってからのことでした。当時は中学3年生で、当然、大したことも考えられず、「何か被災地のためになるのならやってみよう」と単純な理由で始めました。何か皆さんに伝えられたのか。僕なんかが取り上げて何か誤解を招くようなことはなかったか、不快な思いをされた方がいたんじゃないか。KPJを卒業する際、やってきたことへの達成感とそんな不安が入り交じった感情だったことを覚えています。今でも被災地のことについて話すのは、誰かを嫌な気持ちにさせるかもしれないし、怒られるかもしれないし、触れるのは怖いことでありますが、最後のジャーナルから約5年が経ち、震災やKPJの活動、卒業時からの被災地の歩みなどについて、今の僕の目線からお話したいと思います。

 

 まず、僕の中学校についてお話します。僕の地域は昔から何度も津波の被害にあってきました。そのため「津波てんでんこ」という地域の防災の教訓があります。「津波が来る際、誰かを待ったりせず、個々にバラバラに逃げろ」という意味です。私達はそのような教訓を始め、100年に1度の大津波に備え、避難訓練、防災学習を徹底し、実際に東日本大震災の際は、学校にいた生徒は全員助かり、近隣の小学生の避難にも貢献しました。「釜石の奇跡」と呼ばれています。 

 そんな実績があり、周りからそのような評価を頂いてはいますが、やはり震災前は普通に勉強し、普通に部活し、普通に友達と遊ぶ生活でした。そんな毎日が楽しく、続いて欲しかったと思っていたのが本音です。

photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal
photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal

通っていた箱崎小学校に飾っていた釜石市箱崎町の地図

 

 

 震災があってからは、大きな中学校に間借りする形で学校生活が再開されました。たくさんの支援があり、色んな人の努力と協力があったことは百も承知です。本当に感謝しています。ただ、環境の急な変化で、大変なことがあったことも事実です。みんな何かストレスを抱えていたこと、前できていたことが出来ないこと。震災がなかったならと何度も思いました。KPJ1年目は自宅や思い出の場所を撮影し、その中にはもちろん中学校もありました。

津波が押し寄せた釜石東中学校
photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal

津波が押し寄せた釜石東中学校

 

 

 1年目以降も中学校を撮っていたと思います。今思えば、そんな中学生活があったからこそ、こだわっていたのかも知れません。中学校の跡地が今どうなっているのか。僕の写真だけ見ていたら瓦礫の山だったり、ただ土が盛られているだけの土地だと思われるかもしれません。

photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal
photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal

取り壊される途中の中学校

 

 

 しかし、なんと今はラグビーワールドカップのスタジアムになっています。実は、その予定は高校を卒業する頃には分かっていました。しかしその時は正直なところ、あまりいい気持ちではありませんでした。思い出の場所が全く姿を変えること、あんな災害の被害にあった場所で大きな歓声があがること。いい事なはずなのに素直に喜べない自分がいました。

 

 また、ここで「釜石の奇跡」についてもよく聞かれるため話しておきたいと思います。毎回聞かれるたび、僕自身なんと答えて良いのか分からず、その時その時でその場しのぎのような答えをしていたように思います。

 正直、「釜石の奇跡」と呼ばれることに震災後しばらくはあまりいい気持ちはしていませんでした。確かに、自分たちの活動は、当時の先生方や、地域の方など多くの人に協力していただき、自分たちも注力してきた防災教育・学習の成果であり犠牲者も出さなかった、胸を張れるようなことだとは思います。しかし、その一方で自分たちの関係の深い土地や人が被害にあったこともまた、被災後僕達に叩きつけられた現実でした。僕の自宅も全壊しましたし、周りを見渡しても自宅が被害にあった、両親の職場が被災した、家族・親族・友人が亡くなった、そんな人ばかりでした。そんな中だったため、他の方は分かりませんが、少なくとも僕は、うまく言葉にできませんが「生き残ってしまった感」があったのだと思います。幸い生き残ったものの、当時の中学生という立場上、被災地に対してできることも限られていましたし、様々な支援を受けて、震災前に比べて大変だったとはいえ、学校生活をとりあえずは送れていたことで逆に被害を受けた方に対して申し訳なさと自分の無力さを感じ、「奇跡」と呼ばれることを重荷に感じていたように思います。

photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal
photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal

積み上がった建物の瓦礫。校門の痕跡が残っている

 

 

 ただ、時間が経ち考えが変わりました。釜石は前を向いて復興に少しずつ近づいています。震災があったから、亡くなった人に申し訳ないから、そんなことを言っていては、何も行動出来ません。多くの人が辛い経験を乗り越えて、様々な活動をしていることを知りました。僕と当時一緒に過ごした同年代で釜石で頑張ってる友人も大勢います。地元のため、被災地のために何かをしている人を、僕は心から尊敬していますし、応援しています。

 また、僕も当時に比べ、大人になり、様々なことを見たり、経験し、被災地のためにできることの幅が増えました。当時の無力感、「釜石の奇跡」という重すぎる称号ごと背負って、震災前より良い街になるように、皆さんと共に尽力していきたいと思います。

 

 また、僕が活動で撮っていた写真で、やはり生まれ育った箱崎町が多かったと思います。僕の家は被災し、跡形もなく、流されました。被災後は釜石市でも内陸側にある父の社宅に住んでいました。

photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal
photo by ©Ippei Okamichi/311 Kids' Photo Journal

津波で流された自宅跡

 

 

 今もまだ、被災して引っ越した人で戻った人は少なく、家の数も決して多いとは言えません。また、津波対策のかさ上げによって地形は変わり、巨大な防波堤により景観も大きく変わりました。やはり仕方がないこととは言え、自分が生まれ育った土地が姿を変え、震災前の町並みが思い出せなくなるのは胸が痛いです。

 そんな箱崎町ですが、数年前、家族が箱崎町に自宅を再建し、引っ越しました。僕は大学近くにアパートを借りているので住んでいないのですが、家族の戻るという選択には驚きました。詳しくは聞きませんでしたが、おそらく父も母も地元が好きなのだと思います。あれだけの被害があって、対策はあっても再び被災するかもしれない。そんな土地でも、長年暮らしてきたからこその思いがあるのだと思います。

 市の中心部とは違い、箱崎は復興が難しいと思います。できることは少ないですが、少しでも復興に協力し生まれ育った地も、前に進めるようにしていきたいと思っています。

 

 最後に、僕についてお話しようと思います。早いもので僕も就職を考える年齢になりました。思ったことをお話したいと思います。今まで書いてきた通り、僕はずっと「震災がなければ」そう思ってきた節があります。以前に一度、将来、地元に帰るかどうか考える機会がありました。そのとき考えたのは震災がなかったならどうしたかということでした。しかし、今思えばその考え自体見当違いだったのではないかと思います。もちろん、なかった方が良かったことには変わりありません。ただ、確かに、2011年3月11日に私達は東日本大震災を経験したのです。大勢の方が亡くなり、多くを失った悲しい出来事でした。しかし、そんな災害を体験したからこそ思ったこと、学んだこと、出会いがあったのではないのでしょうか。

 もし震災がなかったら、こうしてKPJの記事を書き、震災について振り返り、改めて何か気づくこともなかったでしょう。大きすぎる震災という出来事と、自身の小ささ、無力さに絶望することもなかったでしょう。震災がきっかけでイギリスに短期留学し、周りのレベルに圧倒され挫折することもなかったでしょう。多くの支援を受け、人の温かさに触れる事もなかったでしょう。身近な家族や友人の大切さを痛感することもなかったでしょう。

 これらのことは、今の自分を形成してきた重要な経験です。なければよかったのに、早く忘れたいといった気持ちは痛いほど分かります。ただ、あの未曾有の大震災の経験すらも自分の一部であるということを受け入れることが大事なのではないかと思います。

 これは他のことにも言えると思います。誰しも失敗や、挫折、何かしらあると思います。それをなかったことにせず、そんな過去と向き合って受け入れることで成長していくのではないかと思います。

 僕は時間はかかりましたが、震災の経験を自分の一部として、これからも付き合っていきます。これまで話してきた釜石市や僕の家族、友人もそういった過程を経て、それぞれの選択をし、前に進んでいるのだと思います。震災から時間が経ち、僕が一番思うことは、過去の出来事は今の自分の捉え方で違った意味を持つということです。また、これが僕が震災から学んだ一番大きな財産であると思っています。

 就職についての話に戻りますが、軸としては震災があったからどうこうではなく、「震災という経験によって形成された自分」を大事にしたいと思っています。今回のインターンではやはり震災が自分に及ぼした影響が大きく、防災技術にも興味があったため、その分野企業へのインターンシップに参加しました。自分が学んできたことや人生経験を考えてみて、工学技術を用いて、釜石の復興や、防災に貢献することが目標の一つです。

 ただ、そうでない進路に進むかもしれません。震災から多くを学び、感じたことで、自分がどうなりたいのかの像が広がったように思います。そんななりたい自分や、叶えたい目標を実現できるような社会人になります。どんな進路でも、これまで支えてくださった方々に対して、自分がやりがいを感じ、最大限貢献できることで恩返ししていきたいと思っています。

 

 ここまで読んでくださっている方で、「釜石に帰って復興や防災に直接的に貢献するわけではないのか」と思う方もいるかと思いますし、僕の個人的な考えで不快に思われる方もいるかもしれません。僕も震災のことでこうして文を書いたり、テレビに出ることなどが多く、何か震災に関することをしていく必要があるのではないかと思っていた時期がありました。ただそれでは自分の進路に納得できる答えが出せず、悩んだ時期がありました。しかし色々な経験が全部自分の一部と受け入れてからは楽になりました。今思えば、震災と向き合うことを恐れていたのだと思います。将来は、今大学で学んでいること、幼少期に触れたこと、それに加えて震災の経験から学んだこと、自分ができることで社会、被災地に還元していきたいと思います。これが僕が将来に関して出した答えです。皆さんもそれぞれが東日本大震災について悩み、考え、そこから何か得た物があるのではないでしょうか。その得た物を受け入れてこれからの一歩を踏み出すのが、震災を乗り越える一つの区切りだと考えます。そして、その結果として、被災地と直接関わるという選択をしたなら、それはもちろん素晴らしいことですし、被災地と直接的に関わらなくても震災を乗り越えて、成長し、自身のできることをする、夢に向かって努力するのもまた、多くの似た境遇の方の励みになるのではないでしょうか。

色々なことを書きましたが、僕個人の考えですし、反対の意見の方もいるとは思います。それでいいと考えています。それぞれに背景は違いますし、考え方も違います。それでも、被災地への思いは共通していると思っています。様々な考えの人がそれぞれに自身の考えで活動し、それらが互いに刺激し合い、より良い町を作っていければいいと思っています。

 

 この記事を読んで、何かを感じて、少しでも前を向けたという方がいれば嬉しいです。震災から8年、被災地は少しずつ前に進んでいます。僕も共に少しずつ進んでいきたいと思います。そして、いつか社会人として成長した僕が、復興して素晴らしい町となった釜石をもう一度記事にすることが目標です。

photo by ©Kazuhiko Matsumura/311 Kids' Photo Journal
photo by ©Kazuhiko Matsumura/311 Kids' Photo Journal

もうすぐ社会人となる岡道君